冠光寺流柔術本部 |
フォーラム冠光寺流 |
ご意見、感想、論文の投稿をお待ちしています(短くても可)。 添付でお送り下さる場合は:yabukoji@gmail.com宛にお願いします。 | |
※「ある愛魂の詩」は、六甲山中で愛魂の独り稽古を続ける谷口さんの観照録であり、 保江邦夫著『人を見たら神様と思え』所収の”谷口光弘編”の続編と言えます。 |
ある愛魂の詩 28 その後 by 谷口 光弘 |
【2013年11月23日】 〇〇様 掲載の件、了解いたしました。ありがとうございます。 さて、今日は少し時間があるので、近況報告をさせていただきます。 10月16日に起こった小さな光明は現在も続いております。 今も自分のなかにあるこの不思議な感覚を「空」とか「無」とか呼ぶのでしょうが、自分には なにか良く分からないので「これ」と呼んでおります。 覚醒後一ヶ月を過ぎた今は「これ」に自分を明け渡して統合する作業を稽古として日々行って います。 (愛魂の稽古も平行して行っています) 今は一日の半分程度を「これ」に明け渡して生活することができています。 (外部から見たらボーっとしていると思われていると思います(笑)) いつか完全に明け渡しに成功したならば、それがいわゆる通俗的な覚醒に達した状態なの でしょう。 とにかくこの何かが与えてくれた恩寵に日々感謝して稽古を続けています。 このメールを書いている今も、目の奥から喉の上辺りに「それ」はあります。 本当にありがたくてしかたがありません。 愛魂は本当に素晴らしい業です。 保江先生に本当に感謝していますとお伝えください。 (本来ならば岡山へ出向くべきなのでしょうが、諸般の事情がそれを許してくれません) 今日は少し寒さもマシなようです。 野山道場で稽古ができる貴兄が羨ましいです。 谷口光弘 拝 【完 結】 (13/12/24 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 27 by 谷口 光弘 |
【2013年10月31日】 かなり弱まったものの小さな光明はまだ続いている。 自然発生で勝手に突入する瞑想状態こそなくなったが、今でも意識的に呼吸を停止すると、 以前 にくらべるとかなり弱まったものの軽い瞑想状態に没入することができる。 そしてなによりも顕著なのが、感情的な部分だ。 あいかわらずネガティブな感情は非常に弱く、浮かんでも続かない。その証拠に、明日は ボイラー資 格試験の発表日なのだが、まったく感情に揺らぎがない。 以前の自分ならば資格試験の前日などは終日ドキドキして「不合格だったらどうしよう?」 な どと考えていたのだが、そんな感情はまったく浮かんでこないのだ。 まるである意味別人になったような気がする。 思えば、凄まじい体験だった。 特に満員の阪急電車内で覚醒し、電車を降りてから研修所へ徒歩で行く途中などは、まったく 初めて歩くような感覚で、うまく歩くことができず、電柱にぶつかりそうになったり、信号を どうして渡っていいのか釈然とせずオロオロしてしまった。 周囲の状況もまるで モノクロの魚眼レンズで見ているような歪み方で、まさに赤ちゃんが 初めて歩いて通勤するような感覚だった。 そういう意味では完全に「生まれ変わっ た」といえるのかもしれない。 昨日、フーマン・エマミ(今回のこの体験には前述したようにフーマンが密接に関係して いる)に関連するサイトを閲覧していると、驚くような内容を発見した。 それはフーマンが生前に行っていたという世界に対する祈りの内容なのだが、なんとその 文言と方法が毎日私が行っている冠光寺流の愛魂 活人術の稽古とそっくりなのだ! 以前から世界に愛魂をかけていると、世界のどこかで同じような祈りをささげている人が多数 いることを直感として 感じ取っていたが、やはりそうだったのかと感動してしまった。 ちなみにフーマンのサイトによると、この祈りをささげ続けると「世界の深いところに 働き かける」と書き記してあった。 まさにその通りのことがこの私の身に起きつつあるといえよう。 【続く】 (13/12/17 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 26 by 谷口 光弘 |
【2013年10月28日】 朝、出社してみると小さな光明の状態がかなり弱まっていることに気付く。 自分から無理やり深呼吸や呼吸停止を試みると、いくらか瞑想状態に入ることはできるが、 もはや昨日までのように身体が勝手に瞑想状態に入ることもないし、深い深い瞑想状態に 達することもできない。 愛魂の状態には以前と同様にいつでも入ることができるのが救いか? やはりというか予想通り、小さな光明に達してから13日目でこの変性意識状 態は終わりを 告げそうだ。 【続く】 (13/12/17 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 25 by 谷口 光弘 |
【2013年10月27日】 昨日は休日だったので山へ稽古へ行った。 やはりすべての木々が個性豊かに一本づつ異なって見える状態も続いている。 エネルギースポットに到着し、SPに意識を集中して愛魂とともにエネルギースポット全体に SPを広げると、自分の領域が拡張する感じでエネルギースポット全体が自分の一部になった ように感じられた。 その後、移動を開始すると急に日差しが周囲に差し込み始め、周囲の景色が黄金色に輝き 始めた。 自分のSPと愛魂と周囲のエネルギーが渾然一体になって感じられ、自分の中(と一体になった 周囲)は至福と高揚感に満たされた。 翌日、日曜日の教会の鐘の音を聞くと、昨日の山の中での体験が思い出され、目に見える 範囲の町並みが自分のエネルギーと渾然一体になるのが感じられた。 またしても至福と高揚感に包まれる。 それは鐘の音が終わるまで続いた。 「アジズとの対話」を読み返している間、何度も勝手に身体が呼吸を停止して深い瞑想状態に 入る。 そこで意識して自分と周囲の世界に愛魂をかけると大いなる高揚感とともに一体感を感じる。 それは読み返している二時間ほどの間に何度も何度も繰り返された。 【続く】 (13/12/17 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 24 by 谷口 光弘 |
【2013年10月24日】 小さな光明の状態はまた続いている。 この日は昼からフリーだったので山へ稽古へ向かった。 午前中は前日ほど瞑想状態に引き込まれることがなかったので、ちょっと意識変容状態が 弱まったかな?などと考えていたが、昼の帰宅時に三ノ宮センター街のアーケードを歩き ながら数百人の歩行者と街全体に愛魂をかけてみると、これまでで最高か?というほどの 豪快な愛魂が発散されて自分でも驚いてしまった。 それはアーケードが吹き飛ぶかと思われるほどの勢いだった。 この時の愛魂は明らかに小さな光明の状態が関係していると思われる。 普段とは明らかにレベルの違う愛魂だったからだ。 山へ向かうといつもより木々が元気に見え、気持よく例のエネルギースポットまで辿り着く ことができた。 ここで世界に愛魂をかけ続けていると、ある瞬間から周囲の木々が違ってみえるように なった。 なんというか一本一本の木々が実にユニークに感じられるようになったのだ。 これまで何年間も山へトレランや稽古で通い続けているが、山は山であり、木々や木々で あって、一本一本の個性など考えたこともなかった。 しかし、今この瞬間、一本一 本の木々の個性が明確にユニークに感じられ、それは生命力を 伴って、まるで違う山へ来ているかのように感じられた。 帰りの山道を走って下りながらも周囲の木々に気を取られ、まるで初めて走ったトレイルの ように感じれる。 この状態は麓の街に着くまで続き、街に着いた後もバラ園の薔薇が往路とは打って変わって 本当に美しく見えた。 【続く】 (13/12/14 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 23 by 谷口 光弘 |
【2013年10月23日】 小さな光明の状態はまた続いているものの、過去に体験した三回の恩寵(三味境)とは若干 違うと感じられる点が出てきたので記しておきたい。 基本的にはネガティブな感情がまったくなくなる(そのような感情が湧き出ても一瞬で溶け 去ってしまい継続しない)、睡眠中に夢をみている自分を客観的 にみている自分がいるなど というポイントは同じなのだが、過去の三回がひたすら生きることが楽しく、ポジティブに 物事を捉え続けるという変化に対して今回の小さな光明は、通常意識状態では平常とほぼ 変わりなく、特にポジティブに物事を捉えたりということはない。 そして、過去の体験と一番 大きく異なっているポイントが深い瞑想状態にある。 過去の体験でも自分から瞑想状態に入ると、とてつもなく深い瞑想状態(危機意識がまったく 欠けている状態)に至れることは気付いていたが、今回の小さな光明では、身体が勝手に 呼吸を停止してしまい自動的に瞑想状態に入ってしまうことが多々ある。 特に午前中に顕著で、トイレに入っていようが仕事中であろうが、勝手に身体が瞑想状態に 入ってしまうのだ。 もちろん意識を平常状態にキープ することでこのような状態にも対処することができるの だが、身体が勝手に瞑想状態になるという事態が何を意味しているのかまだ理解しきれずに いる。 過去三回の体験がいずれも向こうから突然やってきた恩寵であるのに対して、今回の体験は 自分から意識を変化させることによってたどり着いた境地である。 こうした経緯を考えると、もともとまったく同じ体験である方が不思議といえば不思議なのだ。 明日でこの境地にたどり着いてちょうど一週間。 過去の体験がいずれも10日から15日程度で突然終了(最後にネガティブな感情が爆発する ことが多い)していることから、今回の体験がどれほど続くかによって同種の体験であるのか 判断するひとつの目安となるだろう。 もちろん自分としてはこの体験が一日でも長く続くことを望むが。 【続く】 (13/12/14 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 22 by 谷口 光弘 |
【2013年10月22日】 小さな光明の状態はまだ続いている。 日曜日は教会の鐘の音に合わせてベランダへ出、愛魂をかけながらの瞑想状態に入ると、 閉じた瞼の裏にクッキ リと十字架が見えた。 すさまじい勢いで愛魂が雲の彼方へ拡散していくのを感じる。 翌日は午後から山へ行く。 いつもはエネルギースポットへ向かう道中の山々は裏寂れてみえるのだが、この日は違った。 山に入ったとたんすべての 木々が生命力に満ち満ちて美しく感じられる。 例のエネルギースポットへ到着すると、大きな白鷺が出迎えてくれた。 すごい勢いで愛魂を世界にかけ続ける。 この日は神秘体験等はなし。 翌日、朝トイレに入っているといきなり深い瞑想状態に突入する。 午前中の勤務は深い瞑想状態を続けながらの勤務となった。 屋上へ行くと、空が愛 に満ち満ちていることがハッキリと感じられ、完全に空に溶け込んで しまう感覚を味わう。 空は、愛は、甘い味がした。 雲を下から眺め続けていると瞬 時、瞬時に雲を上から眺めている自分を発見する。 初めての体験で驚く。 その後、時間を見つけて深い深い瞑想状態へ。 なんども完全に「無」の状態に入る。 パパジのいうようにそこに何かを見つけようとするが、今一歩のところで見つけることが できない。 やはり愛魂の業とパパジやラマナ・マハリシが説くところの不二一元論の解脱法が混ざり 合ったような稽古ではうま くいかないのか? 愛魂なら愛魂の一本でいったほうがいいのか? 今回の小さな光明にたどり着いた時の状態が愛魂とフーマンの説くSPの在った状態だった ので、ついつい他の技法との混合という方向へ流れてしまう。どうすればいいのだろう? 【続く】 (13/12/14 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 21 by 谷口 光弘 |
【2013年10月17日】 小さな光明の状態は続いている。 前夜アルコールを飲んだが、ネガティブな感情はまったく湧いてこない。 とにかく「それ」にくつろいでいる状態が 本当に気持ちいいのだ。 この状態が一日でも長くつづくことを心から願う。 この状態に達してから、達するまでの日常と大きく変わったことの一つに外部への関心が ある。 今年の前半より愛魂がかかっている、いないに関わら ず、とにかく空を眺めていることが多く 空、空、空で空ばかり眺めていた。 なぜそうするのか自分でもわからないのだが、とにかく空を眺めてしまう のだ。 ところが、16日にこの状態に達してからというもの、空を眺める必要がなくなって しまった。 空ではなく、内部にあるSPというか「それ」を 感じ、それにくつろいでいることがなによりも 気持ちいいのだ。 今や空は自分の内部にあるといっても過言ではない。 この状態はほとんどコントロールできている。 通常の意識状態と小さな光明の状態は簡単に切り替えることができる。 呼吸とSPへの集中がキーだ。 ただし、たまにふと内部からあふれ出る「それ」に飲み込まれて しまいそうになる瞬間がある。 今朝も突然内部より「それ」が湧き上がってきて身体が フワフワし、両手が持ち上がりそうに なる感覚があった。 「それ」にくつろいでいるとき、沈黙と静寂、それに呼吸(身体が勝手に呼吸を停止したり 深呼吸したりする)がある。 マインドは「それ」とは関係 なしに言葉を生み、言葉はどこかへ消え去っていく。 目を瞑るともっともっと深い瞑想状態に入れることはわかっているのだが、仕事中にそれは できな い。残念。 【続く】 (13/12/08 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 20 by 谷口 光弘 |
【2013年10月16日】 人生で四度目の三味境に突入する。 この日は十三で研修があったためゆっくりとした朝だった。 時間があったのでフーマンに関するサイトを見ていて、その圧倒的なエソテリックパワーに 驚く。 その後、トイレのなかで一人ぼんやりとフーマンが行っていた技法と自分の神秘体験を比較 していると、実は本質的な部分ではまったく同じもの、「ワンネス」であることが突然理解 できた。 それは大きな喜びだった。 電車で研修所へ向かっている途中、窓の外の大きな雲(台風が通過した直後だった)を眺めて いるとフーマンやアジズが言っていたステートオブプレゼンス(SP)が自分のなかにかなり ハッキリと感じられ、周囲の世界が愛魂からやがて自分自身へと変化して感じられるように なった。 あの大きな雲 や窓の外の景色も実は自分自身であり、自分の心の中そのものだと感じ られると、大きな高揚感に包まれた(ただしこの辺りの意識状態は高揚感のあまり飛び飛びに なっており、よく覚えていないというのが本当のところ)。 十三駅に到着し、電車を降りると明らかにいつもの自分とは違うことがわかった。 自分の中心にPSがはっきりと感じられるのだが、身体の感覚がお かしい。 まるで初めて自分の身体で歩いているようにフラフラするのだ。 駅を出て研修所へ向かう間もPSをハッキリと感じながらかなり危なっかしい感じで歩いた。 そしてこの辺りで気付いたのだ。人生で四度目の三味境に自力で突入することができたことに。 研修所へ到着するも、意識の変化のあまりの大きさに飲み込まれてしまい、朝の挨拶をする のにも必死という有様になってしまった。 研修の講義が始まるも、自分の呼吸に合わせて三味境が深まっていくのでまったく講義の 内容が頭に入らない。 ただひたすら身体がかってに繰り返す深呼吸や呼吸の停止(とにかく呼吸が気持ちいいのだ!) に合わせて深まっていく意識の変化についていくのがせいいっぱいだった。 1時間ほどすると自分は完全にSP だけになってしまい、首から下の(正確には胸の上部から 下の)身体の感覚がまったくなくなってしまった。 手のひらを組んでいるはずなのにまったくその感覚がない。 そして残ったSPは完璧なな呼吸と思考の停止、ときどき現れる硬い感触のマインドと思考と 言葉、そして完全に自分にくつろぎきっ たSPだけがそこに残った。 これまでに三度同じような三味境を体験しているが、今回の三味境が一番強力だ。 これまでは向こうから勝手にやってきたので、ただネガティブな感覚がなくなることを喜んで いる感じだったが(もちろん瞑想するととてつもなく深いところまで行けることに気付いては いたが)、今回の体験は自分の 意識を自ら変容させることで辿り着いた境涯で、とにかく深い 瞑想状態と、自分(というかSP「それ」)であることに完全にくつろいでいるという感じ なのだ。 ここまで達するともはや三味境というよりも「小さな光明(エンライトメント)」と呼んで もいいかと思う。 ダイジのいうニルヴァーナ(これも漢字では三味境である)と区別する意味でもこの呼称の 方がいいかと思われる。 こうした異常に深い変性意識の状態は午前中の11時過ぎまで続いた。 その意識のさなかではあまりに深い瞑想状態ゆえに週末の資格試験の受験は 大丈夫か? このままの状態で午後の実習はこなすことができるのか? という不安さえも生じたが (あまりに深いので一時は果たして日常の意識状態に戻れるのかさえ不安になった)、 それらの不安も一瞬で消し去るだけの強大なパワーがこの変性意識にはあった。 11時過ぎになるとフッと元の意識状態に戻る瞬間が現れはじめ、徐々にそれらが回数を 増していき、気付くと視覚が元の状態に戻っていたので(色 彩感を取り戻したような感じ。 深い瞑想状態時は魚眼レンズでモノクロの世界を見ている感じだった)、意識も通常の状態に 戻っていることを実感することができた。 ただし、深呼吸するといつでも極端に深い瞑想状態に戻れることに変わりはなく、通常意識に 戻ったというよりも、それまで完全に小さな光明に飲み込まれていた意識状態が、自分の コントロールを取り戻したという感じだった。 通常の意識に留まるようにして、身体や意識をチェックしてみると、両目の奥が鈍い感じで 疲れている。 違和感というよりも鈍痛に近い感じ。 普段まったく頭痛がないので、両目の奥の部分(視床下部?)をもの凄く使ったという実感が ある。 肉体的には完全に元通りになったのを実感する。 その後は深い呼吸やSPを意識しないならば、通常通りの意識で研修や講義を受けることが できた。 昼休みに淀川の河川敷へ行き、まだ台風の影響が 残った巨大な渦巻き雲に向かってフーマン への感謝の念を送ると、一条の光が雲の切れ間から差し込んできた。 素晴らしい景色だった。 【続く】 (13/12/08 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 19 by 谷口 光弘 |
【2013年9月22日】 三連休の中日。 ずっと仕事で山へ行けなかったので、この日は日曜日だったが久しぶりに山へ登った。 日曜日だけあって登山者が多く、まったく期待せずに修法が原から例の場所へと向かう。 いつものように大蛇道に入るとヴァイブレーションが変わり、気分も変わったが、この日は 明日も休みだというウキウキした気分になっただけで特に大きな変化は無かった。 例の場所へ到着。 うまい具合に他に登山者もおらず、自分と世界に愛魂をかけていく。 また虫に刺されても嫌なので、適当なところで切り上げて稽古は終了。 下へ向かうと前回左肩を虫に刺された場所が見えてきた。 この場所は以前にも木 や鳥の鳴き声が自分に見えた(聞こえた)場所でもあり、離れた場所 から見ると、今日は木漏れ日に溢れていつもよりも綺麗な場所に見えた。 近づいて みると木の一本一本がいつもよりクッキリハッキリと見える。 20メートルほど先にはこちらに背を向けて疲れて座り込んでいる中年女性が見えた。 クッキリと見える木々の間をゆっくりと歩いていくと、木々の美しさが急速に高まり、やがて 信じられないほど美しくなった。 その美しさは耐え難いほどで、呼吸ができなくなったかと思うと、言葉にできない エネルギーが周囲に渦巻いた。 それは神秘としか形容できない。 人格はなく、雰囲気やエネル ギーに似ているがそれでもない。 本当の神秘の前では言葉はまったく無力だ。 とにかく生命や世界や宇宙と密接に関係していることは直感でわかるのだが、とにかく神秘 としか形容のしようのないものの前で立ち尽くしてしまった。 それは究極の美でもあったのだが、とにかく圧倒されてしまい呼吸がで きず苦しい。 なんとかその木々の間を歩き抜けると、呼吸はできるようになったが、それと同時に感情が 一気に高揚して涙が溢れてきた。 疲れて座り込んでいる女性の横を通り抜けても、涙が止めどなく溢れでてくる。 しばらくして涙が止まり、冷静な意識に戻ることができた。 ここしばらく神秘体験もなく、ただひたすら仕事の合間に愛魂の稽古をするだけだったので、 本当にこの稽古方法で良いのか不安になっていたが、やはりこの稽古方法で間違って なかった、そう確信させてくれた神秘体験だった。 私を導いて くれている大きな何かにただひたすら感謝したい。 そんな神秘体験だった。 【続く】 (13/12/08 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 18 by 谷口 光弘 |
【2013年9月中旬】 仕事の合間や休憩時間に愛魂を世界と自分にかけているのだが、脊髄のエネルギーが 頭頂部へと向かい、しかし頭頂部から上へ抜けることができないのでフラフラする。 しかもフラフラだけならまだしも最近は頭痛がするようになった。 以前に神秘体験をした後で頭の頭頂部のやや後ろが二箇所膨らんできたが、それとは違い、 本当の頭の頭頂部の部分が痛むのだ。 これにはまいった。 脊髄のエネルギーを意識しない稽古方法に変えた方がいいのだろう か? 【続く】 (13/12/03 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 17 by 谷口 光弘 |
【2013年9月11日】 この日は調子が悪い中、山へ稽古へ向かった。 登りは心境的、肉体的にキツく、怒りや、不満、腹立ちといったネガティブな感情に支配 されたままとなる。 修法が原を過ぎて、下りに入り、流れが変わった。 自分を含むありとあらゆる生けとし在るものへの大悲に包まれ、ただひたすら生きる、 在る悲しみに満たされハラハらと涙をこぼした。 その後、山を下るも変化なし。 家の近所まで下ったところで自分に愛魂をかけてみたが、イマイチの状態だった。 やがて下校途中の神港高校の生徒たちに混じってあるいていると突然、上空と繋がっている ような感覚に包まれた。 以前、出社途中に磯上公園の横で感じた感覚とまったく同じ感覚である。 完全に上空と弾力性のある柱状の物で繋がっている感覚で、その感覚は30秒ほどで消えて しまった。 【続く】 (13/12/03 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 16 by 谷口 光弘 |
【2013年9月8日】 数週間ぶりに山へ稽古に向かう。 通常の意識状態のまま修法が原に到着。 トンネルを抜けて例の場所へ向かおうと、ふっと空を見上げると、空に吸い込まれるような 感覚を覚える。 これまでも空の色や奥行きに愛魂を感じることはあったが、吸い込まれるような感覚は 初めてでちょっとビックリする。 崖のような坂を下り、例の場所に近づくと、ふいに意識状態が変化し、今が夏の、九月の、 8日の昼下がりであるという通常の時間感覚がなくなって しまい、本当の「今」がいつなのか 解りそうになる。 また同時に「ここ」が地球の、日本の、神戸の、山中であるという確固たる感覚が崩れて しまい、 本当の「ここ」がどこなのか解りそうになる。 しかしその刹那、目に飛び込んできたのは足元の大きなカタツムリで、このカタツムリを踏み 潰さないこ とに意識が集中してしまい、その不思議な危うい感覚は一瞬で吹き飛んで しまった。 しかし、その感覚自体は一瞬で吹き飛んでしまったが、感覚の余韻は残っており、それは 数千年か、一億年かわからないほどの懐かしさであり、同時に宇宙にたった一人取り残されて しまったような寂しさだった。 まっ たく意味が解らないこれらの余韻に圧倒されてしまい、ほんの少しだが透明な涙を 流した。 自分から求めてもまったくこのような感覚・体験は得ることができない。 ただどこからかやってくるのをひたすら待つしかない。 ただし、分かってい ることはこの一連の体験は愛魂と密接な関係にあることだ。 愛魂を使えるようになった以前にも山中において巨大な愛の存在感(観音様や不動様という 表現が一番ピッタリする)と遭遇したことがあるが、やはり愛魂を使えるようになってからの 体験が圧倒的に多い。 また自分がすべての事象の一部であり、また同時に全てであることを体感したのは女子高校の 校門前であるが、それ以外の体験のほとんどは山中の例の場所の周辺で起きている(今回も そうである)。 なぜ、あの場所へ行くと神秘体験がこれほど高確率で起こるのか? その理由はまったくわからない。 ただしそこへ行くと毎回祝福されたような気分になるし、初めてそこに足を踏み入れた時に、 意識がものすごく高揚して感動したのもまた事実である。 【続く】 (13/12/03 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 15 by 谷口 光弘 |
【2013年8月3日】 やはりこの夏の猛暑のせいで愛魂の効きが悪くなっているようだ。 この日は日曜日だったがスケジュール的にこの日しかなく、山へ向かう。 やはり日曜日だけあって人が多い。 それでも猛暑のなか、あの場所へ向かう。 夕刻近くなってその場所へたどり着いたが、いつもと違ってそこはただの普通の場所だった。 なんの祝福も祝祭も感じられないただの山道だ。 少し落 胆したが、まぁ夕方だからこんなもんか、と思って見渡すと道の向こう側から男性 登山者がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。 その男性登山者とすれ違い、しばらく歩いて振り返ると男性がカーブを曲がって見えなくなる ところだった。 と、どうだろうその男性が見えなくなるのとほぼ時期を同じくして、日の光がその場所に差し 込み始め、アッという間にそこは祝福と祝祭に充たされてしまったのだ。 つまり私以外の誰かがそこにいるとそこはただの山道のままなのだ。 これにはちょっと驚いた。 その後、いつも通りに思う存分自分と世界に愛魂をかけ充実した気分で山を下った。 しかし、それにしても愛魂の稽古にかける時間は一日の中でだんだん増えているのに、2〜 4月頃をピークにして愛魂の効きが衰えているような気がする。 単に暑さのせいならいいのだが…。 【続く】 (13/11/28 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 14 by 谷口 光弘 |
【2013年7月27日】 ここのところ暑さのせいか愛魂の効きが悪く(愛魂モードに入り難くまた入る回数も減って いるため)なっているので、気分を変えるため、また稽古の居着きをふせぐため、半年ぶりに 布引の滝上流にて愛魂の稽古を行う。 通常の再度山の稽古は2時間強の行程だが、この布引の滝コースだと三時間強の行程となる ためなかなか簡単には行えない稽古なのだ。 さて、結果からいうとかなり素晴らしい稽古となった。 この稽古の前日に読んだダンテス・ダイジの散文詩にあった「自分などというものを完全に 捨 て去ったところに愛はある」という一言半句に感銘を覚え、実際に布引の滝上流のパワー スポットにて自分を捨て去った感覚で稽古を行ったところ、自分を脱する(大悟徹底?)と いう状態まであと一息という境涯にまで達した。 ただしその状態ではすでに呼吸をしておらず、「このままでは肉体が死ん でしまう!」という 無意識からの危機感覚によって稽古は中断されてしまった。 やはり本当に大悟に至るためには肉体的には死ななければならないの か? だとしたらもはや娘のためだけに生きているこの身としては大悟に達することは不可能だと いわざるを得ない。 ただし、これまでに三度体験している三昧境のような境涯に達するのは肉体的に死ぬ必要は まったくないので(経験則による)、このあたりになにか抜け道があるのかも知れないと想像 している次第である。 【続く】 (13/11/28 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 13 by 谷口 光弘 |
【2013年6月某日】 山での稽古の帰り、街に戻ったぐらいから再び愛魂が全開となる。 アナハタチャクラが非常に大きく開いたように感じられ、イエス・キリストの死(受難)の ことを考えると涙があふれ出す。 その愛魂はミカエル保育所の十字架を見た段階で最高潮に達し、なぜかキリストが十字架に かかった日もこのような強烈な青空が広がっていたとの確信が生まれる。 この日は30分以上愛魂に酔ったような状態が続き、そのまま帰宅したので、玄関を入ると 飾ってあった蓮の写真が目に飛び込んでくる。 この額飾写 真はもう10年近く飾り続けているのでもはや壁の一部と化していて、まったく 顧みることなどなかった写真である。 しかし今、この額飾写真の蓮の花 が美しくて、美しくてどうしようもないのだ。 ただただ見とれてしまい、気がつくと15分も写真に見とれていた。 【続く】 (13/11/28 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 12 by 谷口 光弘 |
【2013年6月30日】 ここのところ毎週のように日曜日の教会の鐘の音を聞くと、全身の血液が逆流するほど愛魂の 状態に深く入り込むようになる。 実際、全身が沸騰して いるようでメガネが白く煙ってしまうほどだ。 この日は自宅のパソコンに向かっていると鐘が鳴り始め、全身が沸騰している私の脳裏には あきれるほどの青空と、ミカエル・インターナショナルスクールの真っ白い十字架がはっきりと 浮かび上がった。 鐘の音が鳴りやむと普通の状態に戻るのだが、その後も愛魂に酔ったような状態が数十分は 続く。 【続く】 (13/11/22 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 11 by 谷口 光弘 |
【2013年6月9日】 週半ばから愛魂の効果によって嫌なことやネガティブな感覚がかなり減っていた。 週末は娘の誕生会。カラオケで盛り上がった。 翌日曜日の朝、教会の鐘の音で目が覚める。 二度目の鐘の音によって非常に高い意識の状態にまで達する。 その直後に北野町へパンを買いに行くと、ほぼ完全な至福の境地に突入する。 きっかけはインド料理店「デリー」さんの店内を見た時、過去に体験 したインドの映像が 思い出され、うっすらと涙が溢れだし一気に至福の状態に突入した。 今回の至福の状態は非常に強く、以前バンコクのプールで体験した「物質化した幸福感」と ほぼ同程度にまで達した。 パンを買った後、自宅へ戻る途上でこの至福感は頂点に達し、完全に至福感に酔った ようになってしまいフラフラとまっすぐ歩くことができなくなる ほどだった。 自宅に帰宅後、この感覚はかなり治まった。 心のキャパシティがもたないと思った。 この次々に湧き出てくる至福が続くと心が壊れてしまうと思った。 それほどの幸福感。一時間など絶対に無理。 数分間で限界か? 本当に次々に湧き出てくる至福感で心は張り裂けそうになった。 完全に至福感でいっぱいで他の感情が入り込むような隙はゼ ロ。 【続く】 (13/11/22 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 10 by 谷口 光弘 |
【2013年5月29日】 この日も休憩時間に一人愛魂をロビーから街へ、そして世界へと20分にわたってかけて みたが、まずまずの感じだった。 その後、ダンテス・ダイジの散文詩を読んでいて 『ここにいつもここがあり。 今はいつも今だ。 それゆえ、何もかもが瞑想している。 ただし、君は断 じて、今、ここにいることはできない。』 という詩句を目にした時、なにかコツンとくるものがあったので、瞑想状態に入ってみた。 特に「今はいつも 今だ」という詩句を頼りに深い瞑想状態に入ったところ、非常に深い ところから力強いエネルギーが沸き上がってきて、もう少しで頭の先からなにかが 飛び出し そうになった。 きっと血圧は物凄く高い状態になっていたと思う。 もう少し、もう少しでなにかがどこかに達せられそうになったのだが、残念 ながら私のこの 修業の進捗状況では達することはできなかった。 ただ、今、ここ、愛、という3つの言葉、だけで大悟徹底することができるのでは?という ヒントを得ることができたように思われる。 もう少しだった…。 【続く】 (13/11/22 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 9 by 谷口 光弘 |
【2013年5月17日】 この日は朝から体調がよく? 世界へ、そして自分に20分間にわたって愛魂をかけ続けて みた。 それは素晴らしい体験だったが、それはそれで終わっ た。 昼休み時なども屋上から神戸の山々と空に向かって愛魂をかけた。 5月の晴れ渡った空に愛が満ち溢れて素晴らしい体験となったが、それで終わった。 仕事が終わり、帰宅時にそれは起こった。 夕焼けに包まれた街と世界を眺めながら家路を辿っていると、街が、世界が、ミニチュアの 街のように感じら れ、ピンク色の空は愛に満ち溢れていた。 私の意識は極大にまで拡張し、宇宙の中にある地球の上のミニチュアの街を歩いている感覚と なった。 そして いよいよ本当の自分の家に帰宅できる時が近づきつつあると感じた。 ダンテス・ダイジの「私は私の家で安座している」という一文が何度も頭をよぎっ た。 薔薇は美しく、空は美しく、夕暮れに包まれたミニチュアの街は美しく、人々は華やぎ 美しかった。 そして私はこの世界の寓居にたどり着き、通常の意 識に戻ったのだった。 【続く】 (13/11/15 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 8 by 谷口 光弘 |
【2013年5月12日】 上半身に気というかエネルギーが溜まったような感じがしてフラフラするので頭を触ってみると、 頭頂部の百会のツボのところがポコッとたんこぶのよ うになっている。 もしやエネルギーが出口を失って大変なことになるのでは? と心配して元町の権藤先生を 訪ねる。 先生に診てもらうも、原因は不明。 権藤先生曰く「肉髻じゃないか?お釈迦さんみたいなもんや」とのこと。 なんでも悟りを拓いた人は肉髻が盛り上 げってくるとか? そんなバカな! 【続く】 (13/11/15 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 7 by 谷口 光弘 |
【2013年4月15日】 夜勤明けのため、昼から再度山のいつものパワースポットへ愛魂の稽古にでかける。 この日はかなり調子がよく、修法ヶ原を過ぎて大蛇道に入った辺 りからかってに愛魂が 溢れだしてくる感覚があった。 やがて山道を走り進むとパワースポットの手前辺りで愛魂が勝手に愛から慈悲の感覚に 変化したのが自覚された。 そしてパワースポットに到着。春の光にあふれた風景はことのほか素晴らしく、周辺に神々が 満ちているような感慨を覚える。 全身から愛魂の感覚を世 界へ宇宙へと広げ、満足するまで世界と自分に愛魂をかけ続けた。 そして、パワースポットを出発し、最初の上りを過ぎた辺りで勝手に脚が止まった。 そこは以前にパワースポットとして意識していた場所だったが、一本の木が切り倒されたことに よって気の流れ?が大きく変化してしまった場所だった。 その場所に脚を止め、鳥の鳴き声と木漏れ日の中でボンヤリと 軽く愛魂をかけながら、自分の 意識の変化に注意を払ってみたが、世界は美しいという感想以外になんの変化もなかったので、 数分でもとの通常の意識 に戻った。 ところが、通常の意識に戻ったはずなのに何かがおかしい。 景色に絶対的な違和感があるのだ。 さっきまで見ていた森の木と同じ木を見てい るはずなのにまったく違う木を見ている 気がする。 おかしいと思いながら目の前を木を見上げてみると、なんとその木は「オレ」だった。 自分のことを 見て見間違える人がいるだろうか? いるはずがない。 それほどまでに絶対的にその木はオレそのものだったのだ。 雰囲気というか、オーラというか、 とにかくその木はオレの匂いを発散し、オレそのもの だった。 そしてよく見るとなんと隣の木もオレなのだ。 呆気にとられていると、右側で鳴き声がしてきた。 そしてその鳥か虫の鳴き声もなんとオレが鳴いていることに気がついた。 オレの声というかとにかくオレそのものが鳴いているのだ。 なんということだろう、世界はオレそのものだったと気づいた瞬間にドッと涙が溢れてきた。 止めどない涙が1〜2分続いただろうか。 背後から走ってくる足音が聞こえてきた。 その瞬間完全に世界とオレは切り離されてしまい、木は木であり、オレはオレに戻って しまった。 バリバリのトレランウェアに身を包んだ男性ランナーに「こんにちは〜」と声をかけられたが、 私はそれどころではなかった滂沱の涙を隠すのに必死で、とても返事ができるような状況では なかった。 【続く】 (13/11/15 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 6 by 谷口 光弘 |
【2013年4月10日】 瞑想をする。20分を過ぎた辺りで、この宇宙に存在していることに対する嫌悪感が発露し、 それがいままで感じたことのないほどの実感を伴ってい たので、いつもと違う「なにかが 起こるかもしれない」という淡い期待感を持つ。 その後なにも生じないまま瞑想を続けるが、40分を過ぎる辺りで、 なにか違った違和感が 身体の中心奥あたりから何度かグン、グンという感じで浮かび上がってくる。 「ああもう時間がない」と思い、最後にパパジの教 えにしたがってマインドが生じている その根本の部分に意識を当てると、いきなり完全な「無」に突入する。 それは「私」や「心」「意識」がスッポリ と無くなってなくなってしまった完全に空虚な状態で、 肉体の感覚も完全に剥落してしまい、手足の感覚も完全になくなってしまう。 しばらくその状態 にあったが、なにか違和感がするので意識をすこし戻すと、呼吸をして いないことに気づく(まったく苦しくはなかった)。 あわてて何度か呼吸し、再 び意識を深部にフォーカスすると再び完全な無の状態に突入する。 それは三昧境のようなリラックスではなく、完全なまったくなにもないただの無味乾燥な 無の状態であった。 後になって気づいたが、もし私の内部の深淵がここまで完全な「無」ならば、私という本源は どこにあるのか? 私の意識、マ インドは無から生じているのか? 私はただの無なのか? 意味がわからなくなってしまい非常に困惑しているというのが現在の正直な心境。 この無の 状態は時間にして5分弱。強調しておきたいのは明らかに通常の瞑想の意識状態とは 違っていたこと。 肉体の感覚がまったく完全に失われていたこと。 そして単なる勘違いでは絶対になかったこと。 無を感じている私と、無として見られている私と、無そのものが非常に混濁した状態であった ことを書き記しておきたい。 【続く】 (13/11/11 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 5 by 谷口 光弘 |
【2013年4月 1日】 いつものように山へ行き、例のパワースポットへ到着するやいなや、一発目の愛魂が炸裂する。 その瞬間頭の中に「タターガタ」という単語が響き渡る。 なにを意味する単語か分からないまま、さらに愛魂の稽古を続ける。 この日もなかなか調子よく(登山途中はさほどでもなかったのに)、愛魂が迸り出るような 稽古をすることができた。 前回、前々回に引き続き、この日も下山途中から愛魂の余韻で酔っ払ったようになり、至福の 境地へと迷いこむ。 この日は特に酩酊が激しく、本当に 酔っ払ったように至福でフラフラの状態になってしまう。 他の通行人からいかがわしく思われないように気をつけるのが大変だった。 とにかく空の広 さ、というか宇宙を直接見ているという感覚が激しく、最後は至福の酩酊の なかで視野が異常に広がって魚眼レンズで世界を見ているようだった。 帰宅後すぐにパソコンに向かい「タターガタ」の意味を調べてみる。 なんということであろうか、「タターガタ」とは如来を意味する仏教用語であっ た。 如来がなにを意味するのか? 詳しく調べてみると以下のようであった。 「如来のサンスクリット語であるタターガタは修行を完成した者の一般的な呼び名であって、 仏教以前より諸宗教を通じて用いられていた。 それが後に専らブッダの尊称となり、さらには大乗仏教において諸仏の呼称となっ た。」 ブッダ? 修行の完成? まさか〜?(笑) 【続く】 (13/11/11 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 4 by 谷口 光弘 |
【2013年2月28日】 Q様 メールありがとうございます。 山中一人稽古、続けてますよ。 ちょうど先々週と本日、大きな進展がありました。 私の場合、もはや武術の稽古ではなく、愛魂という意識の覚醒の稽古になってしまって いるので、言語でうまく伝えることがでないことをお許しくださ い。 先々週の稽古が終わり山を下ってくる途中空を見上げると、驚きました。 それまで生まれてことのかたずっと空だと思っていたものが実は宇宙だと気がついたのです。 (もちろん頭ではわかっていましたが、感覚というか実感として気づいたのです) それからというもの、地球という惑星の上に張り付いている自分が実感としてあるので、夜に 満月などを見ると、宇宙に放り出されたような感じがして、恐ろしいほどです。 また、感受性が非常に高まってしまい、夕焼けや薔薇の花などを見ると、見とれてしまって あっという間に数十分が経過してしまう有様です(これまでは別に美しいものを見ても 見とれるようなことはありませんでした)。 そして今日、さきほど、稽古が終わって山を下ってくる途中、突然バットで頭を殴られたような 衝撃がきて、この世界の全ては自分のもので、自分もまた世界のすべてだということが実感 されたのです(すみません、うまく言語化できません)。 実感されたというよりも思い出したという感じで、非常に懐かしく、お恥ずかしい話ですが、 人通りのある道端で涙をボロボロこぼして泣いてしましま した(恥)。 こんな感じです。 いよいよ禅でいうところの見性が近づいているような感じもしますが、ここから今一度魔境に 落ちるかもしれません(笑)。 昨年末にあった三昧境のような意識状態には残念ながら今のところ至っておりません。 とにかく保江先生に教えていただいた愛魂を信じてコツコツと一人稽古を続いていきます。 【続く】 (13/11/8 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 3 by 谷口 光弘 |
【2013年2月28日】 仕事の明け日、いつものように山へ行き、自分の場所で愛魂の稽古を行う。 自分の場所へ行くとまるで祝福されているように感じられ、勝手に自分から愛魂があふれ出る ように感じられる。 この日もこの場所から、日本中へ、やがて世界、この惑星、宇宙へと愛魂をかけていったが、 しばらくすると自分 の中がからっぽに感じられ、逆に周囲に愛魂が満ち満ちているように 感じられた。 稽古が終わり下山途中に山手女子中高校の前を通りかかった。 前を歩いている女性中高生のブランド物を見た時に「ああ自分は以前とはうってかわって 物欲がほとんどなくなったなぁ」と思ったその時、まるでバットで頭を殴られたような衝撃が きて、瞬時に何かがやってきた。 それは言語化が非常に 難しいのだが、「本当の意味においてすべては自分のものであり、 自分はそのすべてである」という感情のようでもあり、観念のようでもあり、いわゆる気づきで あった。 世界のすべては元々自分なのだからそれを自分が所持したり、売買したり、独占したりなどと いうことはできないという明確な気づ きで、それはとてつもなく懐かしい感情を伴って やってきた。 あまりの懐かしさに大粒の涙がボロボロとこぼれてしまい、女子中高校の校門の前でこの ような中年のおっさんが涙をこぼしていると不審に思われると考えてしまい、それ以上その 気づきに囚われることなく、顔を隠すようにしてその場を後にした。 もし、あの時にあの気づきの内容をもっと深く考察すれば、さらに深い明察に辿り着けたかも しれないと思うと、少々残念な気もする。 【続く】 (13/11/8 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 2 by 谷口 光弘 |
【2013年2月20日頃】 明け方に死の体験をする。 布団の中で目覚めると、突然ハッキリと死の訪れを確信する。 それは瞑くゆっくりとやって来る。 ああ自分は死ぬんだという確信の元、死への不安感と行ったことのないところへ行くのだと いう不安感が交錯する。 妻や娘への感謝の念と別離の悲しみの感情が発露するが、それ は思ったよりも大きく なかった。 いつかは皆やがて死ぬという諦念の方が大きかった。 ゆっくりと暗闇に沈み込んでいく感覚があり、気がつくと本当に呼吸が停止していた。 そこにあったのは本当に諦めの気持ちと、やや軽めの不安感だけであった。 恐怖や孤独の感情はまったくなかった。ただ瞑く、目を閉じているだけでも暗いのに、 死はさらにゆっくりと瞑かった。 そのまましばらくすると呼吸が再開しているのに気づき、本当に死ぬのではないと気づく。 やがて自分は死という体験の最初の入り口だけをのぞき込 んだと気づいたのだった。 【続く】 (13/11/ 5 谷口 光弘) |
ある愛魂の詩 1 by 谷口 光弘 |
【2012年末の覚え書き】 12月16日の朝始まった『ニルヴァーナの境地』は12月26日の夜、正しくは12月27日の 朝終わったようだ(本文執筆中はまだ確証を得ていな い)。 26日の日中に年賀状を作成していた時に一度激高したが、その後特に気分の変調が あったわけではなく、また状態は保たれているかな、と思っ ていた。 しかし、夜の11時頃突然寝ぼけて起き出し(もちろん私は10時前に就寝したのでまったく 覚えていない)、部屋の襖をあちこち開けて、トイレへ 行き、その後、自室でパソコンに 電源を入れて起動したらしい。 このことで妻と娘が気味悪がって声をかけたところ、なにやらムニャムニャ言いながら眠りに ついたらしい。 翌朝目覚めると酷い二日酔い(そんなに飲んでないのに!)で、非常に惨めな気分になって いた(戻っていた)。 つまり今回の『ニルヴァーナの境地』は大きな怒りの感情を伴うことなしに終了してしまった ようだ。 これまでとはまったく違うパターンなので意味不明だ。 そしてなぜ寝ぼけて行動し たのか? おそらく無意識下においてなんらかの異変が起きたものと推察されるが真相は不明。 ただ、今回の『ニルヴァーナの境地』においては睡眠時に夢を見ているもう一人の自分が いたり、日中にやたら前夜見た夢を思い出したりと、無意識がかなり深いところで関係して いたのは事実。 今回の『ニルヴァーナの境地』で特筆しておくべき点は、自分である程度意識状態を コントロールすることができたということだ。 仕事中は仕事にあ るていど集中していたので、至福感に浸ることもなく、また仕事でポカを することもなかった。 逆に在宅で瞑想を行った時などは強烈な光と至福、多幸 感に包まれることができた。 不安感や孤独感、惨めな劣等感などがないという心のありようは、心の一番底の部分の つっかえ棒がなくなったようで、非常にすがすがしく、至福感に浸ることができた。 特に通勤時の気分の有り様がまったく違っており、なにも心煩わされることなく通勤できたのは 本当に気分が良く、助かった。【続く】 (13/11/ 5 谷口 光弘) |